スコッチウイスキーの起源
スコッチウイスキーについて最初の記述がなされたのは1494年のこと。スコットランド財務府記録の中で言及されている。それ以前に造られていたであろうが、内乱の多いご時世、それを証明する文書がすべて焼失していたので、確かめる術がない。
修道士ジョンが登場する頃には、ウイスキーはすでにある程度完成したものであり、王族貴族によって飲まれていました。その時代ウイスキーがよく造られていたのは修道院でした。
当時、ウイスキーを造るための器具が初期型であり、さまざまな器具を使って精製過程を経なければならなかったので、3種類のウイスキーが誕生しました。2回蒸留したものをシンプレックス、3回のものをコンポジタ、そして、4回のものをペルフェクティッシマと呼んでいました。
スコットランド高地では1日3回ウイスキーを強壮剤、もしくは、一息ついた時の一杯として飲む習慣がありました。つい最近までこうした習慣が蒸留所では受け継がれていました。かの有名なイングランドのドクタージョンソンもこうした習慣に驚いたと言われています。
1707年、連合法(イングランドとスコットランドとの連合法律)により、スコットランドは政治的独立を放棄させられると同時に、モルトとウイスキーに課税されることとなりました。その頃ロンドンでは、ジンの弊害で死亡率が出生率を上回るという状況が発生したにも関わらず、ジンに対する規制を解除し、課税の矛先はなんとウイスキーへいったのです。しかし、税金を払うケースはまれであり、密造が増加していきました。スコットランド高地では、政府収税吏の目を欺く為にウイスキーをシェリーなどの樽に隠し始めたことが、後々、スコッチのブレンドへとつながったのです。
19世紀初頭ナポレオン戦争が勃発し、その戦費調達がために政府はいっそう課税を強化します。しかし、1823年議会を通過した
税法は功を奏し、密造組織の撲滅へとつながりました。1820年代に設立された蒸留所のほとんどが、19世紀後半に再建されたおかげで、今日魅力的なヴィクトリアンスタイルの蒸留所が多く残っているのです。
それ以後スコッチウイスキーにとって予想もしない転機が訪れます。1870年代、大陸でコニャックが寄生虫により壊滅的被害を受けたことをきっかけにスコッチの需要が増加しました。また、ブレンドディッドウイスキーを登場させることで、モルトウイスキーの強さを和らげ、しかも、風味を一定に保つことができ、このおかげで、これまでの大敵アイルランドモルトウイスキー(グレインとモルトをブレンドすることを頑なに拒んできた経緯がある)をものともしない認知を世界で獲得することになったのです。
1909年には王立委員会でブレンドものもウイスキーとして承認され、こうしてスコッチは一躍有名になったのでした。
http://www.scotland-calling.com/distilleries/scotch-whisky.htm